「此の学は、伝の伝有り。不伝の伝有り。」
これは佐藤一斎『言志四録』の言志晩録第二三条に書かれた言葉である。
意訳をすると、教えを伝えるには言葉で伝えられるものとそうでないものがあるということ。
例えば、私はピアノを習っているが、音符の読み方などは言葉で教えられる。が、肝心の弾き方は言葉では教わることができない。「暗黙知」と言い換えてもよいだろう。
また、同じ弾き方でも演奏する人によって、音楽はまったく印象が変わってくる。なぜか?音にはならない「心」が込められているからである。
数年前、ある著名人がSNS上で「寿司職人になるのに修行は必要ない」といった類の投稿し、大炎上となった。これなどはまさに「伝の伝」と「不伝の伝」の違いによるものだろう。寿司の握り方はYoutubeの動画などで学べるに違いない。が、肝心の「心」の部分や「暗黙知」までは教えることは不可能だ。
もし、「寿司の握り方」のみで寿司のおいしさが決まるのであれば、なぜ、世の中においしいと感じる寿司屋とそうでない寿司屋が存在するのだろうか?また行きたいと思う寿司屋とそうでない寿司屋が存在しるのか?そこには「握り方」では表現できない「不伝の伝」があるからである。
会社組織でも同じ。言葉で教えるのには限界がある。言葉で教えられないものは会社の「文化」や「社風」のようなものなど。佐藤一斎の言うように「伝の伝」と「不伝の伝」があることを理解しつつ、対応していくべきだろう。それらをごっちゃにしてしまうと、伝わるものも伝わらなくなってしまうので注意が必要だ。